2012年04月12日

大人の対応


契約書にサインをして無事にこの会社の社員となった僕は、社内を案内してくれる人事の方の後ろをついて行きながら、自分がそれまでの浪人のような生活を抜けて、再び社会の一部になりつつあるのを感じていました。
日本で働いていた会社を辞め、自分の居場所のない実家に身を寄せたあの日から、僕はこの日を待ち望んでいたのかも知れません。
それまでの自由な時間は、自由でありながらとても不自由なものだったのでした。
何をするでもなく海外に飛び出た僕は、自由人を気取っていたものの、何かしなければいけないと、常に“社会の常識”に縛られた不自由人だったのだと気付かされるのでした。

しんと静まりかえった広いオフィスには、十分な間隔をとって大きなデスクが間仕切りを挟んで並べてあります。
オフィスの奥にある食堂には日本の給湯室とは比べ物にならない立派なシステムキッチンが備えられ、カウンターの上にはたくさんの果物やクッキーなどのスナック類が社員のために置かれています。
海外映画でしか見たことのないそんな洒落た造りのオフィスで自分が働くことになり、久しぶりに社会復帰した僕の期待は否応なしに膨らむのでした。
そして、いよいよ僕を面接で落としたあの主任との再会に向かうのでした。

ゆうすけ、また会えて本当にうれしいわ。

僕の心配をよそに、人事から改めて僕を紹介された主任は、僕のことを暖かく迎え入れてくれました。
おそらく彼女も、僕が採用されたことについては相当動揺していたに違いありません。
それでも彼女は、しっかりした大人の対応で僕を迎え入れてくれたのでした。
僕はそれをたいへん好ましく思いました。
彼女に僕のそんな気持ちが伝わったのでしょうか、2人はお互いの中に共犯めいたものを見つけ出し、小さくてつまらないものは水に流しましょうという暗黙の了解が早々に成立したのでした。
僕は安堵しました。一番の心配事が早くも消えていったのです。

主任はこれから僕が一緒に働くチームのメンバーを順々に紹介してくれました。
東京オフィスだけでも約900人いると聞いていたので、アジア太平洋地域のオフィスを全部合わせると相当の社員数だと思われましたが、その社員をサポートするITヘルプデスクセンターで働く人の数は、僕を含めてもたったの5人だけなのでした。
そのうち日本語でサポートするのは僕ともう一人の日本人の男の子だけでした。
他の3人はオーストラリア育ちのアジア人で、英語のほか中国語または韓国語でサポートするとのことでした。
僕はそれまで、ITヘルプデスクというのは、ひっきりなしに電話を受けて問題対応に追われているものだと思っていたのでしたが、どうやらそれほど忙しいものではないようなのでした。
900人の社員を抱える東京オフィスからは、一日に10件、多くても15件の電話が来る程度だと聞いて僕は驚いたのでした。
しかし、よく考えてもみたら、僕が日本で働いていた時に会社のITヘルプデスクに電話をしたのは、仕事で使用していたシステムにログインするためのパスワードを忘れてパスワードをリセットしてもらう時など、ほんの数えるくらいしかありませんでした。

なんだその程度か・・・。

僕は少しほっとしました。
主任の説明によると、ほとんどの起こり得る問題の対処法は既にデータベース化されていて、キーワードで検索すればその対処法がすぐに検索できるようになっているとのことでした。あとはその手順に沿って問題を処理するだけとのことでした。
パスワードのリセットが必要な場合は、パスワードのリセットの方法を検索して、その手順に沿ってリセットすればいいだけなのです。
これならITの知識がない僕でも出来そうです。
しかし、僕が胸を撫で下ろしているのを側で見ていた日本人の男の子が言うのです。

そんな単純に考えてもらっては困ります。最低限のITの知識と経験を持っていなければ対処できない問題ばかりなんですから。

確かに彼の言う通りかも知れません。
僕は単純に考えすぎていたことを彼に謝りました。
けれど、僕は彼に謝りつつも、本当にそうだろうか?とそのデータベースにある手順書のいくつかを読みながら疑問に思っていたのでした。

そのデータベースに保存されている手順書は完ぺきでした。
順を追ってとても詳しく書いてあり、どこからどう見てもこれはITの知識がない人でも問題に対処できるように作成された手順書なのでした。
以前働いたことのある会社で、僕は自分のしている仕事の手順書作りをさせられたことがありました。
新入社員がその手順書を読めば知識がなくてもすぐに仕事が出来るようにと、詳しい手順書を作らされたのです。
このデータベースに保存されている手順書は、僕がその時作成した手順書よりももっと詳しく書かれているです。
これを読んで問題に対処できなければ、それはきっと、これを読んでいる人の側に問題があるのだと思われるくらい詳しいのでした。

どこか手厳しく、言葉の端々にとげのあるその日本人の男の子は、どうやら僕のことがあまり好きではないようなのでした。
理系の学部を卒業した彼は、ITの仕事をしていたのですが、英語の勉強のためワーキングホリデーでシドニーに来たと言っていました。確か25歳だったと思います。
自己紹介をし合った際に、彼は僕の年齢や前職、そしてオーストラリアに来た理由などをあれこれ聞いて、早くも僕を見下しているようなのでした。
先週の金曜日で辞めたという日本人の方は、日本ではプログラマーでITの知識も経験も豊富だったそうです。
その男の子は、彼と一緒に仕事が出来たのはとてもいい勉強になったと言っていました。
そしてその後釜に、僕のようなIT素人が来てしまったものだから、彼はがっかりしてしまったのかも知れません。

随分と威勢のいい子だなと思ったものの、僕はあまり気にはしていませんでした。
正直、僕にも彼のような時期がありましたし、中途で採用した多くの新入社員の世話を前職でしていた僕は、20代半ばの威勢のいい青年をたくさん見てきました。
彼らの多くは、自分はもっと出来る人間だと思いながらも、決して特別ではない平凡な自分に焦っているのでした。
きっとこの男の子も、そう思ってオーストラリアに来たのでしょう。彼もまた“社会の常識”に縛られた不自由人なのかも知れないのです。
僕が彼にできることといえば、あまり彼に迷惑をかけずに仕事をしてゆくことくらいのようです。

それにしても、危惧していた主任とはうまくやってゆけそうだと思ったものの、この男の子とうまくやってゆけるのでしょうか。

新たに出来た心配事を抱えながら、僕の初出社の日はこうして幕を閉じたのでした。

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posted by ゆうすけ at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | ワーキングホリデー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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